<御文>譬えば、天月は四万由旬なれども、大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども、打てば須臾に聞こゆ。御身は佐渡国におわせども、心はこの国に来たれり。仏に成る道もかくのごとし。我らは穢土に候えども、心は霊山に住むべし。御顔を見てはなにかせん、心こそ大切に候え。
<通解>譬えば、天の月は四万由旬も離れているけれども、大地の池には瞬時に月影が浮かびます。雷門の鼓は千万里の遠くにあっても、打てばその瞬間に聞こえます。同じように、あなたの身は佐渡の国にいらっしゃっても、心はこの国(身延)に来ているのです。仏に成る道もこのようなものです。私たちは穢土に住んではいますが、心は霊山浄土に住んでいるのです。お顔を見たからといってなんになるでしょう。心こそ大切です。
<背景と大意>本抄は弘安元年閏10月19日、大聖人が57歳の時に身延の地で佐渡の千日尼に宛てて認められたお手紙です。千日尼と夫の阿仏房は、大聖人が佐渡流罪の際に弟子となり、満足な食事も衣服もない過酷な環境下にある大聖人のもとへ、自らの危険も顧みずに何度も供養の品々をお届けしお守りしました。佐渡の門下の中心的な存在です。事実このことで夫妻は屋敷を取り上げられるなどの難に遭います。それでも大聖人が赦免され、身延へ移られてからも約20日の道のりを夫の阿仏房に食料等を託し送り出します。その中には、ワカメなど山中では手に入らないものもあり、大聖人への真心が尽くされています。その留守を預かる千日尼への苦労を思いやる励ましのお手紙です。
<解説>大聖人は、御文の冒頭で千日尼が師匠を求める心は距離を超えて伝わっているということを、譬えを通して示されます。四万由旬(1由旬はおよそ10キロ程)という果てしなく遠くにある天の月も瞬時に地上の池に浮かぶように。中国の洛陽の都から遠く離れた会稽城という都市の雷門にあった巨大な太鼓が、叩くと遠く洛陽まで瞬時にその音が聞こえたように。「あなたの心は、間違いなく私のところに届いていいます」と仰せです。また次の御文では「仏に成る道」も大切なのは「心」であると示されます。穢土という苦悩にみちた現実世界にあっても、正法を行じる私たちの「心」は、共に常寂光土にあると。となれば、会える会えないの形式ではなく、「師弟不二」の心こそ大切であると結論されています。生涯、師を求めぬく求道の心こそ、一切の障魔を打ち破る力であり、成仏の要諦です。
<学んでみて>先日、任用試験が終わりましたが、それを通して、今回学んだ通り、求道の心がいかに素晴らしい心か、その人を力強く輝かせていくかを体験しました。今回一緒に学んだご婦人は、初めて出会った頃、体調を崩されていたこともあり、「私なんか生きていても」と後ろ向きな心でいらっしゃいました。それでも任用試験を決意されて、勉強会がスタート。私はお伝えするのに必死でしたが、同席してくれた先輩が、「勉強していくうちにどんどん表情が変わっているよね」と言うのです。確かに、どんどん目に輝きが出て、表情が変わっていかれていました。試験当日も大晴天の中、晴れやかに臨まれ、その様子に未入会のご家族も大変に喜んで下さいました。求道の心は、こんなにも人の輝きを引き出すのかと感動しました。私自身もますます求道の心で頑張ります!
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